今、ここで『孟子』を読むことの意義(2)-性善説とは何か-

今、ここで『孟子』を読むことの意義(2)-性善説とは何か-

※今回は、前回のコラム「今、ここで『孟子』を読むことの意義(1)」の続編です。
(コラムタイトルをクリックいただくと、前回のコラムをご確認いただけます。)

 

 『ノマドランド』の主人公、ファーンは、夫を失い、経済的に困窮する中、年金受給を勧められるも、「働きたい」と断ります。そして「ホームレスではない、ハウスレスだ」と、車上生活に入ります。
 ノマド(放浪民)ですから、行く先々で、異なる仕事に就き、様々な苦難にも遭いもします。しかし、そこに描き出される日々に、私は、絶望を感じませんでした。なぜなら、ファーンが、静かに丁寧に生きているからです。

 その様子は、前回紹介した『孟子もうし』告子上篇の「学問の道は他無し。其の放心を求むるのみ」(一人ひとりが、見失っていた自己の善なる本来性を、自力で回復する努力を続けることで、必ず、人は本来の善を取り戻すことができる)への朱熹しゅきの注に引用された程氏の言葉(漢文資料1)を思い起こさせました。

程氏は言う。「聖賢の千万言は、ほかでもない、人々が、見失ってしまっている心を集約し、繰り返し、自身に取り戻そうとして発したものである。自ら主体的に、向上心をもって進み、下学(身近なところから、切実な学び)を積んで上達(道に到達)するのである」と。

 ノマドとして暮らす中で、ファーンは「ノマドには、最後のさよならがない。『また路上で会おう』と別れ、本当に会える。だから、信じられる」と語ります。そして、映画の最後で、スクリーンの「ノマド」達は、現実のノマドだと明かされました。

 映画を見終ると、クロエ・ジャオ監督の「私は世界のどこに行っても、出会った人々のなかに善意を見出してきました。このオスカーは、どんなに難しくても、自分自身のなかにある善意を保ち、お互いのなかにある善意を持ち続けるという信念と勇気を持っていた人のためのものです」という語りが腑に落ちます。

 つまり、「人之初 性本善」(人の初め、性、本と善なり)へのジャオ監督の答えが、「ホームレスではない、ハウスレスだ」という言葉に象徴されるような自由と孤独を引き受けて、なおかつ連帯する人々であったのです。
 そして、今、この答えに、世界の多くの人々が共感したというわけです。

 そうならば、性善説は、信仰でもなければ、観念的・抽象的な「思想」でもない。生きた哲学であるということになります。
 池田晶子氏()は、著書『考える日々』の中で、次のように、「思想」と「哲学」の違いに言及しています。

思想は、生活に立脚しないことができるかもしれないが、哲学は、生活に立脚しないことはできない。思想は、どこかから持ってきて取って付けることができるが、哲学はどこかから持ってきて取って付けることが絶対にできない。

 また、池田氏は『14歳からの哲学』においても、

日常の営みの前で立ち止まり、そこを深く掘ることができれば、それはそのまま哲学に直結する。叡智への扉は、見知らぬどこかではなく、私たちの眼前にある。

 この定義に従うならば、私たちは、『孟子』の性善説を一つの哲学資源として、読み直すことができるのではないでしょうか。
 もちろん、誰もがクロエ・ジャオ監督のように、優れた表現者になれるわけではありません。しかし、『孟子』と対話する中で、例えば、次のように、今、ここにいる「私」を内省することはできるのではないか。

 今、私たちはコロナ禍という、未曾有の、地球規模の危機の真っ只中に、身を置いています。見えない敵と、先の見えない闘いを、今なお闘っています。いつ終わるのか、終わりがあるのかさえわからない闘いです。
 こうした未曾有の事態が、引き金となって、今、現代社会の様々な矛盾が、際だって露呈してきています。環境破壊、貧困、格差、差別、暴力、等々。そんな中で、強く心に響いたのが、『武漢日記』の方方氏の発言です。

ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度を取るかだ。
(飯塚容+渡辺新一訳『武漢日記――封鎖下60日の魂の記録』河出書房新社 2020)

 漢文資料2を見てください。方方氏の「弱者」は、孟子がその救済を最優先するべきだとした「窮民にして無告の民」なのです。

 

 そもそも『孟子』七篇は、まずりょうの恵王との間に交わされた利義の弁から始まります。
 開口一番、「いったい我が国にどんな利益をもたらしてくれるつもりか(將有以利吾國乎)」と問う梁の恵王に対して、孟子は、「王様は、どうして利益のことばかり口にされるのか。[大切なことは]やはり仁義しかありません(何必曰利。亦有仁義而已矣)」と即答します。
 孟子の思想的立場、すなわち、反-功利主義(「何必曰利」)と道徳主義(「有仁義而已矣」)の立場を、のっけから鮮明に印象づける対話であると言えましょう。(漢文資料3

 そして、今度は、漢文資料4、性善説の根拠となる「怵惕じゅってき惻隠そくいんの心」、つまり、幼な子が井戸に落ちそうになっているのを見たら、思わず、はっと驚き、手を差し伸べざるを得ない。その子の親と昵懇になりたいからではない、同郷の朋友にほめられたいからでもない、見殺しにしたと悪い評判が立つのが嫌だから……といった打算的・利己的な理由からではない、と述べています。

 一方で、孟子は退けましたが、この三つの理由から幼な子を助けたとしても、「幼な子の命が救われた」という結果だけに注目すれば、その動機如何に関わらず、結果オーライで、何も問題ないとする見方も可能です。
 たとえ売名行為で募金をしたとしても、そのお金で救える命があれば、第三者が、ことさらに、それを批難する筋合いはないでしょう。結果さえ良ければ、その動機や方法を問わないという現実的・合理的な判断も一理ある。「お金に色は無い」ということです。

 こうした立場を取るのが、すなわち、功利主義です。
 「功利主義」とは、ジェレミー・ベンサム(1748-1832)が定式化した倫理思想で、「功利性の原理」を指針とし、「最大多数の最大幸福」を目指して行為せよとするものです。資料2に挙げていますが、児玉聡は、功利主義の特徴として、①帰結主義(行為の正しさを評価するのは行為の帰結である)、②幸福主義(その行為が人々の幸福に与える影響こそが倫理的重要な帰結である)、③総和最大化(人々の幸福の総和、つまり足し算して、それが最大になるように努める必要がある)の3つを挙げています。いちいち納得できます。

 しかしながら、孟子は、きっと功利主義を批判すると思います。漢文資料2を参考に、考えてみて下さい。
 その「最大多数の最大幸福」というスローガンからも窺えるように、功利主義は、全ての人の幸福を目指すものでは決してない。そこから漏れ落ちる人々が、必ず存在する。功利主義の政治においては、かならず一部の人間、少数者は切り捨てられてしまうのである。社会全体の利益のために、少数者の基本的人権が侵害されかねない。功利主義は、全ての存在の救済を最初から放棄している、と批判するのではないでしょうか。
 功利主義は、ある意味、それは極めて現実主義的、合理主義的な思想であるが、同時に、ある意味、それは非常に危険な一面を持っているとも言えるでしょう。

 

 私自身は、古典の授業に限らず、すべての授業の場面において、出発点として、まずは、「今、自分たちはどのような時代を生きているのか?」という問いかけから始めることが、当事者意識を持った「学び」が求められる主体的学習(Active Learning)の基本であると考えています。
 その場合、現状認識を、一つにまとめる必要はないでしょう。生徒たちの、それぞれの興味・関心・立場に応じて、様々な問いが立てられることで、「今」が、多角的、重層的、立体的にとらえられる。そうすることで、生徒たちの視野も、「読み」の可能性も広がり、また、深まっていくと期待できます。

 次に必要なのは、対話です。例えば、私が、クロエ・ジャオ監督のスピーチと出会うことで、彼女の紡ぎ上げた信念の原点『孟子』と私の対話が促されます。
 そして、皆さんに提供する機会をいただいたことで、「性善説とは何か」をテーマに、いくつかの漢文資料を共に読むという対話を行うことができたのです。

 


【漢文資料】
漢文資料1『孟子集注』告子上篇より朱熹注
程子曰、「聖賢千言萬語、只是欲人將已放之心約之、使反復入身來。
自能尋向上去、下學而上達也。」

(書き下し文)
程子曰く「聖賢の千言萬語、只だ是れ人、已に放ちしの心を将て之を約し、反復して身に入り来たらしめんと欲す。
自ら能く尋ねて上に向かい去きて、下学にして上達するなり」と。

漢文資料2『孟子』(梁惠王下篇)
老而無妻曰鰥。老而無夫曰寡。老而無子曰獨。
幼而無父曰孤。此四者、天下之窮民而無告者。
文王發政施仁、必先斯四者。
詩云、「哿矣、富人。哀此煢獨。」

(書き下し文)
老にして妻無きをかんと曰ふ。老にして夫無きを寡と曰ふ。老にして子無きを獨と曰ふ。
幼にして父無きを孤と曰ふ。此の四者は、天下の窮民にして告ぐる無き者なり。
文王政を発し仁を施すに、必ず斯の四者を先にす。
詩に云ふ、「よいかな、富める人。此のけい獨を哀れむ。」

漢文資料3『孟子』(梁惠王上篇)
孟子見梁惠王。王曰、「叟不遠千里而來、亦將有以利吾國乎。」
孟子對曰、「王何必曰利。亦有仁義而已矣。」

(書き下し文)
孟子梁の惠王に見ゆ。王曰く「そう、千里を遠しとせずして來たる。亦た將に以て吾が国に利有らんとするか」と。
孟子こたへて曰く「王、何ぞ必ずしも利と曰はん。亦た仁義有るのみ」と。

漢文資料4『孟子』(公孫丑上篇)
孟子曰、「人皆有不忍人之心。先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣。
以不忍人之心、行不忍人之政、治天下可運之掌上。
所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子将入於井、
皆有怵惕惻隠之心。非所以内交於孺子之父母也。
非所以要誉於郷党朋友也。非惡其聲而然也。
由是観之、無惻隠之心、非人也。無羞惡之心、
非人也。無辭譲之心、非人也。無是非之心、非人也。」

(書き下し文)
孟子曰く「人皆人に忍びざるの心有り。先王人に忍びざるの心有り。斯に人に忍びざるの政有り。
人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行はば、天下を治むること、これを掌上にめぐらすべし。
人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以の者は、今人たちま孺子じゅしの将に井に入らんとするを見るに、
皆、怵惕惻隠の心有り。内交を孺子の父母に内るる所以に非ざるなり。
非所以誉を郷党の朋友にもとむる所以に非ざるなり。其の聲をにくみて然するに非ざるなり。
是に由りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞惡の心無きは、
人に非ざるなり。辭譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。」


() 池田晶子(1960~2007)哲学者。日常の言葉で哲学を語る著書によって多くの読者の支持を得た。
→京都書房の『新訂国語図説六訂版』などでもご紹介しています。

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