今、ここで『孟子』を読むことの意義(1)-性善説とは何か-

今、ここで『孟子』を読むことの意義(1)-性善説とは何か-

2021年10月04日

 まず、映画『ノマドランド』で2021年アカデミー賞監督賞を受賞したクロエ・ジャオ氏のスピーチの一部を紹介します。

   中国で育った私は、父と一緒に中国の古典的な詩や文章を暗記するゲームをしていましたが、そのなかでも特に印象に残っているのは『三字経』で、最初のフレーズは「人之初 性本善」(人の初め、性、本と善なり)というものでした。
 人は生まれながらにして善良なものである。この6文字は、子どもの頃の私に大きな影響を与え、今でも心から信じています。

 このスピーチを聴いて、私は、ジャオ氏が「今でも心から信じている」と語った「性善」とは何か、これを契機に、古典に遡って、見直してみたいと思いました。
 それと同時に「性善」の教えに支えられたクリエーターが『ノマドランド』という名作を生み出し、まさに今、世界で高い評価を得たという事実は、一体、何を物語るのか、私なりの答えを見出したいと考えたのです。

 今回は、まず、ジャオ氏の引く「人之初 性本善」(人は生まれながらに善良なものである)という6文字の意味について、考えてみます。
 これは、言うまでもなく、「性善説」と呼ばれている思想を端的に表現したものです。

 性善説と言えば、誰もが、すぐに『孟子もうし』を思い浮かべるでしょう。そして、『荀子じゅんし』の性悪説を対局の思想だと考えがちですが、果たしてそうでしょうか。

 つまり、全く同じ土俵で、対等に、右か左か、黒か白か、という風に論じてよいのだろうかと、私は、常々疑問に思ってきました。
 そもそも、孟子も荀子も、戦国時代に活躍し、ともに孔子を尊崇する儒家の思想家です。ふたりは、当時の現状をどのように認識し、人間をどんなふうに理解していたのか、原典を読むことから始めましょう。

 例えば、『荀子』性悪篇(※1)では、「人が、性・情に従った結果が、争奪に明け暮れ、秩序が乱れた今の世の中なのだ。」と、状況分析をしています。

 では、『孟子』はどうでしょう。
 『孟子』の冒頭(※2)で、梁の恵王の「先生は、梁の国にどのような利益をもたらしてくれるのか」という問い対し、孟子は「王さまはどうして利益のことばかりを口にされるのですか。大事なのは仁義だけです」と応じ、「そのように、『利』を追求することに躍起になっているから、誰もが、義をないがしろにし、ことごとく奪うまで争いを止めず、民は餓え凍えるのです。」と続けます。

 このように、両者とも、戦乱の時代を生き、その中で苦しむ民の惨状を前に、一刻も早い、治国平天下を実現したいという思いを抱いていたという点では、一致しています。
 しかし、異なるのは、ここからです。荀子は、その酷い現実の原因を、利得に流されやすい(生而有好利焉)という、人間の心の傾向性に求め、それを、そのまま、本性とみなし、「人の性は悪なり。其の善なるものは偽(人為)なり。」と主張します。

 そして、本性が悪なのですから、人が善を実現するためには、どうしても「師法の化」、「礼義の道」すなわち、外部からの規制としての教化や礼儀の力が必要だと言います。
 すなわち、「性悪説」の背後には、人間は、自力では自己修正、自己救済ができない未熟な存在であるとする人間観が見て取れます。

 一方、孟子は、人々が、利得を求め、憎悪で傷つけ合い、欲望によって節度のない行動をする現状を、「牛山」の喩え(告子上篇)で、次のように説明します。

 牛山は、都の近くにあることから、樹木が伐採され、さらに牛羊を放牧したことで、ハゲ山になり、植物を育む力を失ったかのように見える。しかし、静かな夜気の中で、山に植物は芽生えている。
 このように、人間の善なる本性、それ自体も、後天的な要素によって覆い隠され、まるで、初めから無いように感じられることがあっても、それは、一時的な現象で、本質そのものは、決して損なわれたり、失われたりすることはない。本性は、完全無欠なるものとして、厳然と存在し続ける、と(※3)

 そして、「学問の道は他無し。其の放心を求むるのみ。」と、一人ひとりが、自力で、見失っていた自己の善なる本来性を回復する努力を続けることで、必ず、人は本来の善を取り戻すことができる! と断言します(※4)
 「見失っていただけだ」ということは、思い出す(取り戻す)べき「善」が、例えば、あなた自身の中にも、すでに、そして、常にあるという人間存在への深い信頼の逆説です。

 

 このように『孟子』の諸章を読んでみると、孟子の性善説とは、現状の実態から課題を見出し、それに対する直接の対応策として主張したものではないことに気づきます。
 まさに、仁義あるのみ。人が向かうべき理想を示し、その実現に努力することが人として生きる道だと言うのですから、荀子のように「師法の化」「礼儀の道」といった、外部の力を絶対不可欠とする、他力主義ではなく、あくまで一人一人の人間には自らを新たにする力が具わっているという人間の可能性を信じる、自力主義の実践論と言えるのではないでしょうか。
 吉田公平氏は、両者の違いを次のように説明しています。

 (孟子の)「学問」(学びて問う)とは、自己と自己を取り巻く社会の現状を観察して本来的な姿に照らして果たしてこれでいいのだろうか、と問うことであろう。その「学びて問う」力を誰もが固有しているというのが性善説の原理であった。それは、一部の選良にのみ与えられた特権ではない。
『陽明学からのメッセージ』

 クロエ・ジャオ監督のスピーチに戻りましょう。
 彼女は、「人は、生まれながらにして善良なものであると、今に至るまで心から信じている。(~ I still truly believe them today.)」と述べていました。

 believe、信じる対象としているのですから、ジャオ氏にとっても、性善説(人の心は本来善である)は、人が人を信じる前提として、謂わば、悲願と希望を込めた信念であり、「誰もが、自己の内に善性を持つ」という確信は、自分自身への揺るぎない肯定感でもあったと言えるでしょう。

 

 次回は、「性善」の教えに支えられたクリエーターが『ノマドランド』という名作を生み出し、まさに今、世界で高い評価を得たという事実が物語ることについて、さらに、古典をひもときながら考えていきたいと思います。

 


以下は、コラムでご紹介した古典の原文です。

(※1)『荀子』性悪篇
人之性悪、其善者偽也。
今人之性、生而有好利焉。順是、故争奪生、而辞譲亡焉。
生而有疾悪焉。順是、故残賊生、而忠信亡焉。
生而有耳目之欲好声色焉。
順是、故淫乱生、而礼義文理亡焉。
然則従人之性、順人之情、必出於争奪、合於犯文乱理、而帰於暴。
故必将有師法之化、礼義之道、然後出於辞譲、合於文理、而帰於治。
用此観之、然則人之性悪明矣。其善者偽也。

(書き下し文)
人の性は悪なり、其の善なる者偽なり。
今人の性、生まれながらにして利を好む有り。是にしたがふ、故に争奪生じて、辞譲ほろぶ。
生まれながらにしてねたにくむこと有り。是に順ふ、故に残賊生じて、忠信亡ぶ。
生まれながらにして耳目の欲の声色を好む有り。
是に順ふ、故に淫乱生じて、礼義文理亡ぶ。
然らば則ち人の性に従ひ、人の情に順へば、必ず争奪に出で、犯文乱理に合して、暴に帰す。
故に必将かならず師法の化、礼義の道有りて、然る後辞譲に出で、文理に合し、而して治に帰す。
此をもつて之を観れば、然らば則ち人の性は悪なること明らかなり。其の善なる者偽なり。


(※2)『孟子』梁恵王上篇
孟子見梁惠王。
王曰「叟不遠千里而來。亦將有以利吾國乎。」
孟子對曰「王何必曰利。亦有仁義而已矣。
王曰『何以利吾國』大夫曰『何以利吾家』
士庶人曰『何以利吾身』上下交征利而國危矣。
萬乘之國弒其君者、必千乘之家。
千乘之國弒其君者、必百乘之家。
萬取千焉、千取百焉、不為不多矣。
苟為後義而先利、不奪不饜。
未有仁而遺其親者也、未有義而後其君者也。
王亦曰仁義而已矣。何必曰利。」

(書き下し文)
孟子梁惠王にまみゆ。
王曰く「そう千里を遠しとせずして來たる。亦た将に以て吾が國を利することあらんとするか。」
孟子こたへて曰く「王何ぞ必ずしも利と曰はん。亦た仁義有るのみ。
王『何を以て吾が國を利せん』と曰ひ大夫『何を以て吾が家を利せん』と曰ひ
士庶人『何を以て吾が身を利せん』と曰ひ上下こもごも利をれば国危ふし。
萬乘の國其の君をしいする者、必ず千乘の家なり。
千乘の國其の君を弒する者、必ず百乘の家なり。
萬に千取り、千に百を取る、多からずと為さず。
苟も義を後にして利を先にすることを為さば、奪はざればかず。
未だ仁にして其の親を遺つる者有らざるなり、未だ義にして其の君を後にする者有らざるなり。
王も亦た仁義を曰はんのみ。何ぞ必ずしも利曰はん。」と。


(※3)『孟子』告子上篇
牛山之木嘗美矣。以其郊於大國也、斧斤伐之。
可以爲美乎。是其日夜之所息、雨露之所潤、非無萌蘗之生焉。
牛羊又從而牧之。是以若彼濯濯也。人見其濯濯也、
以爲未嘗有材焉、此豈山之性也哉。
雖存乎人者、豈無仁義之心哉。其所以放其良心者、
亦猶斧斤之於木也。旦旦而伐之、可以爲美乎。其日夜之所息、
平旦之氣、其好惡與人相近也者幾希、則其旦晝之所爲、有梏亡之矣。
梏之反覆、則其夜氣不足以存。
夜氣不足以存、則其違禽獸不遠。人見其禽獸也、
而以爲未嘗有才焉者、是豈人之情也哉。
故茍得其養、無物不長。茍失其養、無物不消。
孔子曰、操則存、舍則亡。出入無時、莫知其鄉。惟心之謂與。

(書き下し文)
牛山の木嘗て美なりき。其の大國に郊たるを以て、斧斤之を伐る。
以て美と爲すべけんや。是れ其の日夜の息する所、雨露の潤す所、萌櫱の生ずる無きに非ず。
牛羊又從ひて之を牧す。是を以て彼の若く濯濯たるなり。人其の濯濯たるを見るなり、
以て未だ嘗て材有らずと爲す、此れ豈に山の性ならんや。
人に存する者と雖も、豈に仁義の心無からんや。其の其の良心を放つ所以の者は、
亦た猶ほ斧斤の木於けるがごときなり。旦旦にして之を伐らば、以て美と爲すべけんや。其の日夜の息する所、
平旦の氣、其の好惡人と相近き者ほとんまれなるは、則ち其の旦晝の爲す所、有之を梏亡すればなり。
之梏して反覆すれば、則ち其の夜氣以て存するに足らず。
夜氣以て存するに足らざれば、則ち其の禽獸をること遠からず。人其の禽獸のごときを見て、
以て未だ嘗て才有らずと爲す者は、是れ豈に人の情ならんや。
故に苟しくも其の養ひを得れば、物として長ぜざる無し。苟しくも其の養ひを失へば、物として消せざる無し。
孔子曰く、れば則ち存し、つれば則ち亡す。出入時無く、其のところを知る莫しと。惟れ心のひか。


(※4)『孟子』告子上篇
孟子曰「仁人心也。義人路也。舍其路而弗由、
放其心而不知求、哀哉。人有雞犬放、則知求之。
有放心、而不知求。學問之道無他、求其放心而已矣。」

(書き下し文)
孟子曰く「仁は人の心なり。義は人のみちなり。其の路を舍てて由らず、
其の心を放して求むるを知らず、哀しいかな。人雞犬けいけんの放する有れば、則ち之を求むるを知る。
放心有りて、而るに求むるを知らず。學問の道は他無し、其の放心を求むるのみ。」


———————————————
国語・国文学専門の教育出版社
株式会社京都書房
https://www.kyo-sho.com/index.html
———————————————