漢文の読み方について 思いつくまま(1)

漢文の読み方について 思いつくまま(1)

次の文章は、私が兵庫県立姫路東高等学校在職中に、兵庫県高等学校教育研究会国語部会西播磨支部で発刊している『西播国語』(2013年11月5日発行 第43号)という小冊子に掲載していただいたものである。文章自体は『西播国語』に掲載したままであり、訂正等は加えていない。

私はこれまで姫路商業高等学校(7年)、姫路東高等学校(15年)、姫路西高等学校(19年余り)に在職していた。姫路東高と姫路西高はどちらも二度ずつ勤務しており、退職時は姫路西高であったが、在職途中で病気になり、勤務することができなくなって、ご迷惑をおかけしてしまった。今は退職した身で、漢文のさまざまな文章について、自分なりの読みを考える日々を送っている。

1999年に兵庫県高等学校教育研究会国語部会から、共著の形で、『漢文学習必携』を京都書房から出版していただいた。その編集責任者の一人として、今も訂正や新たな事項の書き加え等をしている。

本文の1「好読書不求甚解」は、『漢文学習必携』にも取り上げている内容である。この読み方については、さまざまな出版社に訂正等の意見を出していたが、なかなか取り上げてもらえなかった。しかし、三省堂『全訳 漢辞海 第四版』では、「甚」の字の説明において、《副》の説明の中の例文にこの文があり、私が訂正した読み方に書き改められていた。第三版と比べてもらいたい。

本文についてのご意見ご感想等があれば、是非お寄せいただきたい。

 

はじめに

漢文を教えていて、教科書のこの読み方はどうなんだろうかと思うことがよくある。漢文は中国の文語文であり、日本の文語文と同様、その原文に句読点は一切施されていない。したがって、読む者はどこで文が切れているのか、どこからどこまでが一つの句になっているのかを考えなければならない。解釈の仕方に応じて、句読点が違ってくるのは当然である。古典に関する数多くの注釈書は、テキストの解釈に揺れのある証左であり、正しいとは言えないものも数多くある。教科書はいずれかの注釈書に基づいて編集されているが、生徒たちにはその読み方が絶対だという思い込みがある。しかし、その読み方が信頼するに足りないとすれば、それを正す必要がある。教室で生徒に教える時には、生徒が納得するような授業をしたい。そのためには教師自身の理解が不可欠である。私は、教科書の訓読の仕方で、自分自身が納得できなければ、その読み方を改めている。他の担当教師にも理解を得て、改めた読み方で授業をしてもらっている。

かつて二十代の時、訪問指導で杜甫の『春望』の授業を行ったことがある。「感時花濺涙 恨別鳥驚心」という頷聯について、教科書の読み方は、一般的な「時に感じては花にも涙をそそぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」(時世の悲しみを感じては花を見ても涙がこぼれおち、家族との別れを恨んでは鳥の鳴き声にすら心を痛ませる。)であった。しかし、文構造からすれば、「花濺涙」「鳥驚心」は「主語+動詞+目的語」であり、「花」と「鳥」とを擬人化した表現として、「花涙を濺ぎ」「鳥心を驚かす」と読む方が自然なので、「花は涙を流す」「鳥は不安になる」という意味でとることにした。生徒には教科書の読み方を訂正するよう指示をした。これは吉川幸次郎氏の解釈によるもので、中国語の語順に基づけば極めて自然な解釈である。ところが、授業後の校長室での反省会では、教科書の読み方を訂正するのはもってのほかだという指導主事からの言葉。これは自然な読み方です、といくら説明しても納得してもらえない。私は当然譲れない内容だと思っていたので、自分の考えを主張した。その結末はあまり覚えてはいないが、平行線のまま反省会は終わったように記憶している。

漢文の世界はなにぶんにも権威を重んじる傾向があって、ひとたび著名な大先生が読み方を決めてしまうと、後人はそれに右へならえがほとんどで、あまり異論を唱える人がいない。特に、教科書となると、新しい読み方を示すのにはかなり度胸がいるようだ。しかし、生徒に教える時には、なるべく納得のできる読み方をとって教えたいものだ。十四年前、兵庫県高等学校教育研究会国語部会が京都書房から『漢文学習必携』を出版した。その時以来、私は編集委員の一人として、毎年、内容の間違いの訂正や、新しい内容の追加に努めてきた。昨年度(2012年度)、その二訂版として新しい内容をかなり追加した。前半の句形編は私が、そして後半の語彙編は山尾孝司先生が担当した。編集においては、あくまでも生徒が理解できるようにわかりやすくという姿勢で当たっている。本稿では、これまで私が使ったことのある教科書を中心に、個人的に奇妙だと思った読み方を紹介したい。内容的には『漢文学習必携』で取り上げているものもある。思いつくままという姿勢で書きたいので、教科書名は伏せておくことにする。

=教科書の読み方 =改めた読み方

1.好読書不求甚解(陶潜『五柳先生伝)

教師になって漢文を教え始めた時、最初に疑問に思った読み方である。教科書及び指導書の説明には、否定詞「不」の後に副詞「甚」があるので、部分否定であるとし、「甚だしくは解することを求めず」と読み、「それほど深くは解釈することを求めない。」とある。この説明で納得できないのが、「不」と「甚」との間にある「求」の扱いである。部分否定と全部否定との違いは、否定詞と副詞との位置関係にある。その原則は、「否定詞+副詞」が部分否定、「副詞+否定詞」が全部否定である。簡単な用例を挙げると、「不常有。」(常には有らず)が部分否定で、「いつもあるとは限らない。」の意。「常不有。」(常に有らず)が全部否定で、「いつもない。」の意。部分否定になると、副詞の読み方は、全部否定とのニュアンスの違いを持たせるために、「つねには」「かならずしも」「ともには」「はなはだしくは」「ことごとくは」のようになる。但し、「復」については「た」という同じ読みをする。

初めの文に戻るが、「好読書不求甚解」において、「甚解」は「深く解釈すること」という意味の名詞句であり、動詞「求」の目的語にすぎず、「不求甚解」は「深く解釈することを求めない」という意味の単なる否定形である。したがって、「はなはだしくはかいすることをもとめず。」という部分否定の読み方は間違いであり、「はなはかいすることをもとめず」あるいは「甚解じんかいするをもとめず」と読むべきである。『漢文学習必携』にもこの指摘はしている。ちなみに角川の『新字源』は、わざわざ「甚解」という熟語を挙げており、「すみずみまで意義を理解する」としている。

次のような文が、「甚」を用いた部分否定である。

2.子随我後観百獣之見我而敢不走乎。(狐借虎威『戦国策』)

前述のように本来漢文には句読点がない。どこで切って読むかは、読み手の判断に委ねられる。しかし、書き手には書き手の思いが当然あったはずなので、それに即して読む必要がある。この二つの文を見たときの疑問は「百獣之見我」の箇所で、なぜ「之」の字があるのかということである。「獣たちが私を見かけて」という意味であるなら、「百獣見我」(百獣我を見て)で十分である。ということは文の切り方が間違っていることになる。「之」の字の働きに着目すると、「之」は、主語と述語の間に置かれて、主述構造全体を名詞化させる働きがある。この「之」の働きは、中国の文法書には書かれているのに、日本の高校生のための参考書で指摘しているものはあまり見かけない。(『漢文学習必携』、三省堂『漢辞海』にはその指摘がある。)この「之」の働きに着目すると、「百獣之見我」は、「獣たちが私を見かけた(その時の彼らの)様子」という意味になる。そこで、この表現を軸にして全体を眺めると、上の「」に示したように、「子随我後観百獣之見我。而敢不走乎。」(あとしたがひて百獣ひやくじゆうわれるをよ。すなはへてげざらんや。)と読めばよい。「あなたは私の後ろにつき従って、獣たちが私を見かけた時の様子をじっくりとごらんなさい。そうすれば、(獣たちは)どうして逃げないでしょうか、いや逃げるに決まっています。」という自然な文脈を見ることができる。

参考までに先人の読み方を挙げておく。いずれも「之」の働きを踏まえている。しかし、最後の「乎」まで含めた句を「観」の目的語にするという、大変、苦しい読み方になっている。これらの読み方から考えると、教科書は一体何に基づいているのであろうか。

*「子我が後に随ひて、百獣の我を見て敢て走らざらんやを観よ。」
『漢文大系』安井小太郎 1915

*「子、我が後ろに随って、百獣の我を見て走らざるを敢へてするかを観よ。」
『國譯漢文大成』宇野哲人 1924

*「子我が後に随ひ、百獣の我を見て敢て走らざらんやを観よ。」
『漢文入門』小川環樹・西田太一郎1957

*「子、我が後に随って、百獣の我を見て、敢て走らざるかを観よ。」
『新釈漢文大系』林秀一 1981

*「子、我が後に随ひて、百獣の我を見て敢て走らざるかを観よ。」
『中国古典新書』澤田正熙 1984


次回のコラムでも引き続き、『西播国語』に掲載された内容をご紹介します。(編集部)

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